作:井上ひさし (吉川英治「宮本武蔵」より) 
出:吉田鋼太郎 オリジナル演出:蜷川幸雄 音楽:宮川彬良
出演:藤原竜也 溝端淳平 鈴木杏 塚本幸男 吉田鋼太郎 白石加代子 大石継太 他 2021年10月大阪公演観劇@梅田芸術劇場シアタードラマシティにて観劇

https://horipro-stage.jp/stage/musashi2021/

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、ゆかいなことを いっそうゆかいに」
これは、作者・井上ひさしさんの名言であるが。

 この舞台作品「ムサシ」は、まさにその言葉通りの精神で書かれた傑作戯曲に違いない。そしてその本の、ト書きの一字一句まで、もれなく拾い取って演出した蜷川幸雄さんと、一人一人に当て書きされた実力俳優さん達によって、近年稀に見る名作舞台になったのだと思う。観客は終始ゆかいに笑い、しかし内容は深い。ユーモアとシリアス。
 「ムサシ」と言っても、単なる宮本武蔵の評伝ではなく。この舞台は、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘するも、その時小次郎が命をとりとめ、6年後に二人が再会したならば、という後日譚として展開する。
 剣豪とは何か?剣の道は人を斬り殺しながら成長することで良いのか?その井上さんの思いは、やがて「復讐の連鎖を断ち切る」「人が自分の心の中に地獄を作らないために」「生きなければ」という大きなテーマに繋がっていく。

 思えば、今から12年前の2009年、この舞台は無事に!初演の幕が開いた。無事に、と書いたのは、遅筆堂の異名を持つ井上センセが、例によって台本の仕上がりが遅く(笑)台本原稿は毎日何枚かずつ稽古現場に届けられ→最終原稿の届いたのが初日の2日前位だった!からである。当時、私や周辺の友人どもは(井上&蜷川がタッグを組んだ藤原竜也&小栗旬W主演の話題新作を1日も早く観たい、でももしかして初日は延期かも?)と本気で疑い、自分の観劇日程を調整したり最初から複数回分のチケットを確保したりしていたものだ。
 だから、開演前ギリギリまで稽古が続いたそうで、さぞや役者さん達は大変だっただろうと思うが、そこは実力者揃いの皆様、初日からそんなことは微塵も感じさせない完成度で、もうお見事!の一言、本当に大拍手ものの感涙舞台だった。
 それから、早や12年、主要キャストはほぼ初演のままで再演を繰り返し、多くの海外公演も好評だったが。その間に井上ひさしさんがお亡くなりに、更に蜷川さんも逝ってしまい、それでも吉田鋼太郎さんが蜷川演出を引き継いで、今年の公演に至っている。今年は「蜷川幸雄七回忌追悼公演」(本当は来年が七回忌)として、埼玉・東京で幕を開けた後、今もまだ地方公演の最中である。すでに大阪公演までは千穐楽を迎えているので、多少のネタバレはありで話を進めるが、これから観劇する方はその点ご了解願いたい。

 前置きが長くなってしまったが。今回、自分がこの作品の話を綴ろうと思ったのは、初演以来ずっとこの舞台を観続けてきて、宮川彬良さんの劇中音楽もほぼ全部覚えてしまった、位のリピートはしているのに、それでもなお、今年の舞台では新たに大きな発見がいくつもあったからである。
 自分はここ2年ほど、古典の補綴や古典芸能の現代化、といった分野にとても興味があり、その手の講座をよく受講している。趣味の観劇も、気がつくと自然に、現代劇より古典芸能関係や、古典の現代化に取り組んだ作品、を、より好んで観るようになっていた。
 そんな時に観た今年の「ムサシ」は、あぁ、これはこういうことだったのか、と初めて気づくことだらけだった訳で。

この作品のあらすじや、初演からの足跡などは、公式HP※の方をご参照いただくとして、その上で、舞台の感想等を思いつくままに記してみようと思う。
 まず、プロローグは、大きな日輪を背景にした巌流島の決闘シーン。小次郎(横溝淳平)をたおした武蔵(藤原竜也)は、まだ脈がある小次郎に手当てを!と叫び姿を消す。
 その後の舞台美術の移動が目を見張るほど美しい。舞台奥から、竹林がサワサワとゆっくり動きながら現れ、さらに分割された禅寺のセットが、回る竹林の間で組み立てられていく様はなんとも幻想的。そして最終的に組み上がった禅寺・宝蓮寺は、まるで橋懸りを伴った能舞台なのだ。
 初演の頃は、あぁ、能舞台のイメージで、そんな要素を含んだ演出なのだな、としか思わなかったが、今見れば、このセットの中に、すでに全体の展開と結末への伏線が張られていた。それこそが最初から劇作家の狙いだったのだ、と気づいて驚愕。
 
 井上ひさしさんは、歴史上の人物や文学作品を主軸にした作品を何本も書いている。太宰治、石川啄木、宮沢賢治、等々。しかし、いつもその人の評伝を書きたい訳ではなく、例えば太宰治ならば「太宰の小説の作り方を借りて、その方法で戯曲を創る」ことが井上さんの目的なのだ。彼の小説技法をパロディにしたらこういう舞台になりましたよ、と。
 
 そこで、「ムサシ」はといえば。井上さんは「能・狂言の形式や手法を駆使して」日本人の心と身体の問題を考えつつ、この現代劇を書いたのだろう。これが夢幻能なのだと知れば、予想外の結末も納得がいく。
 また、途中で白石加代子さんが、鈴木杏ちゃん相手に舞狂言の「蛸」を披露するシーンがある。これも今までは、白石さんは流石に芸達者だなぁ、と感心する以外の感想はなかったのだが、初めてこれが「間狂言」(能と能の間に挟まれて演じる狂言)として、きちんとこの場に設定されているのだと気づいた。
 それを演出する蜷川さんも、この二人の狂言指導に、野村萬斎さんを何気にスタッフとして使っている。小さな文字で【狂言指導:野村萬斎】とは何と贅沢な!演るからには本物を、という意気込みが半端でない。初演時、杏ちゃんは、白石さんと一緒に萬斎さんに狂言を習いに通うも、なにしろ初体験で難しく、蜷川さんには「まるで学芸会だな」と言われて泣いた、と思い出を語っている。

(2)に続く

(篠折朋・記)