作:秋元松代
演出:長塚圭史 音楽:スチャダラパー
出演:田中哲司 笹本玲奈 松田龍平 石橋静河 岩倉三郎 朝海ひかる 他
2021年10月 横浜公演@KAAT神奈川芸術劇場(KAATプロデュース)
兵庫公演@兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホール
大阪公演@枚方市総合文化芸術センター

https://www.kaat.jp/d/chikamatsu

 この作品は、亡き秋元松代さんの紛れもない名作・代表作だと思っている。

 振り返れば初演が1979年、東宝から「近松門左衛門の心中物作品を、新たな視点から劇化した新作を」と依頼されて書き上げた、作者初の商業演劇だった。演出は蜷川幸雄さん、キャストは忠兵衛/平幹二朗&梅川/太地喜和子、与兵衛/菅野菜保之&お亀/市原悦子の役者陣で帝国劇場での開幕。以来、多くの役者達によってキャストを変えながら、繰り返し蜷川演出で上演されてきた。「近松心中物語〜それは恋〜」副題の「それは恋」は、秋元さん自らが作詞して森進一が歌った、主題歌の題名でもある。

 蜷川さん亡き後、2018年には、いのうえひでのり演出版(堤真一&宮沢りえ、池田成志&小池栄子)が新演出で登場し、話題を呼んだのも記憶に新しい。

 自分は幸いに、初演からほぼ全ての役者によるこの舞台を目にすることができた。そのため、どうしても蜷川演出版の大人数でダイナミックな舞台のイメージが強すぎて、今回、長塚圭史さんがこの伝説の名作に挑むと最初に聞いた時は、正直言って、期待と同時に一抹の不安を覚えたことは否めない。しかも、キャストの中にミュージカルスター・笹本玲奈の名前を見つけて、「えっ?これはもしや、笹本さんに演歌『それは恋』を歌わせる気なのか?!」と本気で思ったものだ。(笑)しかし、そんな自分の不安は見事に打ち砕かれ、観劇後の今は「本当に良い舞台を見た」という満足感に浸っている。

 まずは、作者の執筆の経過(古典芸能の現代劇化)に目をむけてみると。

 秋元さんは、近松門左衛門の心中物15作品の中から、人形浄瑠璃「冥途の飛脚」より、飛脚屋養子の忠兵衛と遊女梅川の恋物語を、また「緋縮緬卯月の紅葉(ひぢりめんうづきのもみじ)とその後編「跡追い心中卯月の潤色(いろあげ)」より、与兵衛とお亀の物語を選んだ。この3編を合わせて大幅に構成し直し、独自の物語も組み込んで「新しい心中物語」へと創り変えている。

 二組の男女の心中への道行。片方の忠兵衛・梅川は二人で一直線に死に向かって疾走し、もう片方の与兵衛・お亀は成り行きから心中を目指すも、与兵衛が何をやってもドジで死にきれず、結局一人だけ生き残ってしまい諸国をさまよう、という結末で、これは滑稽にさえ見える。その対比が実にうまい構成の劇作で、観客を見事に引きつけていると思う。悲劇と喜劇、それも単なる恋物語ではなく、その時代の弱き者に目を向け、時代の犠牲者となっている様々な庶民の目線で、秋元さんは力強く人間を描き切ったように思う。

 さらに、秋元さんは、原作の人形浄瑠璃に欠かせない三味線の音楽をやめる、という前提で書き進めた。義太夫の語りこそが人形浄瑠璃の世界を音楽的に成立させているのに、それを抜いて、である。そこは初演当時、蜷川さんの演出が上手くフォローをした。義太夫の語りが、悲嘆の声に聞こえるのは、その旋律が当時の日本人の心情を救うかのような音だったからなのでは?と考えた蜷川さんは、義太夫の語り(音楽)=声を絞り出すように歌う森真一の演歌、に置き換えて、心中への道行場面において大音量で鳴らしたのである。降りしきる大量の雪(何トンもの和紙を注文したそうだ)とともに、歌舞伎的な様式表現をも添えて。その圧倒的な叙情と美しさは、今なお自分の目の裏に焼き付いて消えない。古典と現代が見事に融合した舞台だった。

 文楽・歌舞伎の時代までは当たり前にあって、日本の近代劇で失われたとされる「道行(みちゆき)」と呼ばれる表現様式がある。(これについては長くなるので、また別の機会に記す)この秋元松代「近松心中物語」には、その「道行」が消滅せずに、確かに存在しているのだ。ただ、かつての義太夫の声による地謡の文がなくなって、口語の台詞だけによる道行には、原作の文語体の文でそれを聴く時のような陶酔感、というか心地よさがどうしても薄れてしまう。そこが、現代劇で「道行」を書く・演じるときの課題なのだと思っている。(なお、私達の「道行再考プロジェクト」は、それに取り組んでいる集団だということを一言書き添えておく)

 さて、そこで肝心の2021年版・長塚圭史演出は、といえば。

 蜷川さんをなぞらず、圭史さん独自の切り口でこの作品に取り組んだことが成功の原因だったのではないだろうか。彼は語る。「すぐれた戯曲というものは、一つの正解だけではなく、多くの可能性を抱いているものだと信じています」──その可能性を引き出して、私たち観客に見せて下さったことに感謝したい。

 その最大の特徴は、敢えて、人形浄瑠璃や歌舞伎の様式をそぎ落とし、彼の言葉で言えば「俳優の身体と精神で戯曲の言葉に対峙してもらい、そこから生まれるものを純度高く舞台に立ち上げたい」と考えて作業を進めた点だろう。

 人数も、初演時とは比べものにならない少人数で、一人の役者が何役もこなした。音楽も主題歌「それは恋」は捨て、しかし、作者が劇中に記した多くの歌の歌詞は変えずに、スチャダラパーの音楽や色々な鳴り物で、町の喧騒、遊郭の賑わい、庶民の生活や嘆き、を表現させたことが実に新鮮だったと思う。スチャダラパーの音楽が、想定外に作品とマッチしていたことがとても衝撃的だった。

 役者陣の感想も思いつくままに。

 忠兵衛の田中哲司さん。田舎から出てきた生真面目だけが取り柄の男を熱演している。古典芸能の様式美ではなく「死ぬしかない、ところへ追い詰められる」その気持ちの熱量で忠兵衛の道行を観客に「美しく叙情的」と感じさせることに成功していると思った。

 なお、この戯曲の重厚さから、忠兵衛はいつもベテランの年配役者さんが演じるが、実際の忠兵衛の歳を考えれば、これも思い切って、若い青年役者さんを抜擢して演じさせても面白いかもしれない。

 梅川の笹本玲奈さん。(残念ながら歌いませんでしたね!)死に近づけば近づくほどにその熱量は増していき、最期の雪の心中場面でMAXになる美しさ。雪の白さと、梅川の緋の下着の赤、血しぶきを示す赤の紙吹雪が雪の白い紙吹雪にかすかに混じる様が何とも哀しい。

 今回の舞台は、忠兵衛と梅川二人合わせて、現代劇の中の「道行」を、役者の身体と台詞だけでも見せられる可能性を感じ、それはとても大きな発見だった。

 与兵衛の松田龍平さん。いやいや、歴代の与兵衛の中で、最高に「情けない男」を板の上で生きていた。(褒め言葉です!笑)こういうダメンズ、でも憎めない人って、現代にもいるよね!と妙に共感。各場面で思わず笑ってしまう。力の抜けた台詞回しが終始続く中で、忠兵衛に頼まれて、何の躊躇もなく店の金50両をポンと貸す時だけ、すごく生き生きと目を輝かせて、「よっしゃ!」「あったで!ちょうど50両あった。わしの志や、受け取ってくれ!」と、ここだけ妙に力強い台詞なのが凄い。

 最後に一人だけ生き残ってしまうが、それは単なるコメディではなく、「生き長らえればこそ」の別テーマにも繋がっていくだろう。

お亀の石橋静河さん。恋に恋して、心中に憧れ、自分の思いに素直で、与兵衛が大好きで、ストレートに自分をぶつけてくる若い女性を好演。今も昔も、男と女って、人間って変わらないよね、と思わせてくれる。若い観客には一番共感の持てるキャラクターだったのではないだろうか。

 こちらの与兵衛&お亀カップルの方が、より現代の若者には、自分達との共通感を見いだせるかもしれない。

 その他、石倉三郎さんの八右衛門も、いかにも大阪の町人でとても良かった。八右衛門は決して悪役ではない。脇をしめる役者さんがいると舞台がとても引き締まる。

 この作品を見て、少しでも近松門左衛門に興味を持った人が、文楽や歌舞伎の劇場にも足を運んでくれるとよいなぁ、と思う。

 例えば歌舞伎の「封印切」(忠さんが懐の公金三百両についに手をつけ、金包みの封印を切ってしまう!)一度見ておいて損はない。

(篠折朋・記)

※補足「道行(みちゆき)」

「道行」とは、日本の文学、芸能、音楽でよく使われる用語で、人が旅をして目的地に着くまでの過程を、道中の風景や、土地の記憶や、旅人の心情を盛り込みつつ描く表現形式の一つである。このような形式は昔から東西に存在するのだが、日本の道行文は「客観描写であるが進行形」である点に特色があるといわれる。西洋の「旅」で重要なのは行き着いた場所での体験だが、日本の「旅」はその途中の過程、旅そのものが重要で、自然やまわりの人間世界と関わり合いながら、時間的・空間的に連続して展開していくものらしい。また、近松の心中物に見られる「道行」のように、その人が「すでに死んでいる人」であることが前提、となっていることが多いようだ。